2013年3月20日水曜日

美しさの種類

馬鹿げた点数に飾られた「フィギュアクイーン」とやらの、その美しさを称える文章が散見されます。
「花のように美しい」という表現もありましたが、言ってる方も言われる方も恥ずかしくならないのが日本人とは違うなぁと感じさせてくれます。

キム・ヨナ選手の写真を見て、きれいだなと感じたものも無いわけではありませんが、所詮は造花の美です。
作られた美しさは表面だけのもの。一度目にすれば十分なのです。それに・・・・・・
・・・・・・動きのある映像の中の彼女を、残念ながら美しいと感じたことが無い私ですから、尚更と言うところでしょうか。

フィギュアスケートという競技の選手の美しさは、作られた造花の美ではありません。それでは魅力を感じません。生き生きとした生命力に満ちた、動きの中から輝き出すような美にこそ惹きつけられるのは私だけではありますまい。

訓練されたポーズとしての美しさが人目を引くのは一瞬だけのことです。
心に残る、惹きつけられてやまない美しさは、殊更に強調しなくても溢れ出て隠れることはありません。上辺に貼り付ける必要も無いものなのです。端から美しさの種類が違うから比べようも無いのではありませんか。どれが本物かは心が感じたそのままのことでしょうから。

同じように感じている方もいらっしゃるのでしょうか。
「フィギュアスケートの採点システム改善へ向けての行動を嘆願する署名」も、世界選手権の結果を受けて、署名数が伸び続けています。これは喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、考えてしまいます。
間に合うのだろうかと心配もしてしまいます。
でも、決して諦めようとは思えないのです。
最近目にして、あぁ、そうだったなとかみ締めた言葉を胸に!

「風の谷のナウシカ」より・・・・・・・・・「姫様が諦めない限り諦めるな。」

私たちの姫様は決して諦めたり投げ出したりしません。
全てを黙って引き受けて、浄化してゆくようなその存在に励まされながら、未来のために進みましょう。


2013年3月18日月曜日

消えそうな正義

世界選手権が終わりました。
予想通りの結果が、予想以上の点数から生まれました。

この結果の何処を見たら、納得できると言うのでしょうか。
「爆盛加点」と称されていますが、それも無理からぬ事と思いました。

スポーツの結果に「もし・・・」を言うのはご法度かもしれませんが、考えてしまいませんか?

もし・・・・・・ジャッジが自分の名前を明かした上でなら、
                  あんな意図的な採点をすることに歯止めがかかったのではないかと。
                  採点内容を説明する義務を負っていたなら、
                  説明できないような点数は付けることが出来なかったはずだと。

もし・・・・・・採点経過が全て明らかになっているものならば、
                  第三者が監視でき意見できる体制ならば、ここまで偏ったことが出来た だろうかと。


「まさか、いくらなんでも、そこまではやらないだろう」

日本社会の、守るべき規範が身に付いた上での常識で、そう考えていたのは私も同じです。
しかし、そうではないことに気が付いた・・・・・・と言うより、思い知らされたのです、あのバンクーバーでの茶番で。

あれから三年。来シーズンには次の五輪があるのです。
信じて見守った結果、何か変わりましたか?
IOCが、ISUが、日本のスケート連盟が、何か改善策を講じましたか?
マスメディアが襟を正しましたか?

何も変わってはいません。
それどころか、なりふり構わぬ醜さを増していると、私は感じています。






この署名活動は、誰かを貶める為でも、誰かに利益をもたらす為でもありません。
全ての選手に、良い結果でも、思わしくない結果でも、納得して受け入れることのできる採点をと願うため、
そして、選手、コーチ、その他の関係者も、試合を通してより成長する為の糧を得て欲しいと願うため、
そう思っています。

スポーツの真剣勝負に、筋書きなど必要ありません。

2013年3月16日土曜日

何度言われても変わらない!!

世界選手権が始まりましたね。
男子SPを観て暗雲に包まれた気がしましたが、女子SPを見て沸々と湧き上がる怒りを感じております。

韓国のメディアが、「(日本が)浅田に失望し、キム・ヨナの方が一枚上だと実力を認める雰囲気だ」と伝えたらしいですね。そんなものが「日本の反応」ですか。報道としての資質が無いなら去るべきでしょう。

何が何でも金選手を、他より明らかにレベルが上だと、そう断じたいのですね。
そのための刷り込みの一環でしょうか。

嘘も百回言えば本当になる、などと言って憚らない方々とは違います。
何度言われようが、どんな大声であろうが、真実が変わることはありません。

美しいものは美しい。
見苦しいものは見苦しい。
心惹かれるものには関心が湧く。
そうでないものをいくら押し付けられても、迷惑で疎ましいだけ。

中央日報の記事によると、キムヨナが審判買収をしていると、日本ネットユーザーが悪意の主張をしているそうですが、自分達がしていることを他人もしているに違いないと思うのは無理ないのでしょう。それとも、絶対に反撃されないと思っていたのに、って感じでしょうか。

買収を止めろとも、買収しているとも、言っていませんよ。
私が望むのは、FPU署名の私自身のコメント欄にも記入したことです。

・ジャッジの匿名性は廃止!
 選手たちの努力の結晶に、点数をつけるのなら、堂々と胸を張って説明できることをしてください。

 
・全ての選手に等しくルールの適用を!
 選手によって変える必要はありません。規則に沿って淡々と、私情を交えずその一回の演技だけを採点してください。
タイム競技で誤差が認められている計測器があるとしても、同じ競技の中でプラス誤差の機器と、マイナス誤差の機器を競技者によって使い分けたりはしないでしょう。同じ基準で計ってください。

・恣意的なルール運用に監視を!
 たとえ規則上は認められた認定範囲加点範囲であろうと、選手によって匙加減が変わるような運用は論外です。得点操作を疑われるような採点は厳に慎むべきです。

・採点経緯の可視化を!
 加点、減点、認定、その他全ての経緯は公開されるべきです。競技→採点→結果の過程にブラックボックスがあるようなものです。
疑念を抱く者を黙らせるのではなく、疑念を抱かれないような改善をしてください。


美しい、素晴らしい、心魅かれる、そう感じるのは私自身の心です。
こちらの方が優れているぞ、それはたいしたことないぞと、いくら言われても感じる心は変わりません。
この心は今まで私が生きて培ったものです。その自由を他人に左右されるつもりはありません。

同じように感じていらっしゃる方、共感してくださる方がいらっしゃいましたら、どうぞあなたの声も添えて署名にご協力ください。
期間中に署名サイトの不具合があった為、期間が4月3日まで延長されております。

選手達は、自分のやるべきことを見据えて実行しています。
出来ることはすべてやっているでしょう。
ならば私たちも、私たちの出来ることを精一杯したい!
その一心です。

まだ遅くないと信じて・・・・・・


2013年3月13日水曜日

一人の国民として

知りたいことを知る手段が、ここ数年で大きく様変わりしています。

以前は当然のことながら、新聞やテレビ、ラジオが主でした。
それに加えて、家庭や学校での大人との話というのもまた、主な情報源でもありました。

今はもっと即時に世界中の情報に触れる機会に恵まれて、同時に玉石混交の中から真実を見出すことも必要となってしまいました。

情報から自分で判断する上で必須なのは、事実をありのままに伝える資料だと思います。
いわゆるバイアスのかかっていない、編集のされていない、そんな情報そのものです。

先日の予算委員会での中山成彬氏による質問の中継映像を、私は動画サイト経由で見ました。
いままで表立って触れられなかった内容であったと感じましたが、今、国民が知るべき事柄だと思います。
当然というべきか、どんどん再生回数が伸びていたこの動画ですが、突然、削除されたのです。
理由は、NHKによる著作権侵害の申し立てがあったためだそうです。

国会中継に著作権!?

国会中継は、受信料を国民から徴収している国営放送たるNHKの、著作物だと、当のNHKが認識していると言うことでしょうか。

大いに疑問を感じるところですが、今後の推移を注視したいところです。

国会の様子は、「衆議院インターネット審議中継」
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL
というサイトで公開されています。
こちらを見るほうが良いのでしょうかねぇ。
一見したところ、NHKが放送したものと違いが感じられませんでしたが、NHKはこれには著作権侵害を申し立てないのでしょうか?

なんだかなぁ・・・と感じることが多すぎる昨今ですね。

2013年3月7日木曜日

季節の変わり目は・・・・・・

あれこれと慌しかったり忙しかったり、大変ですよね・・・と他人事のように言ってみましたが、私、体調を崩して寝込んでました・・・・・・
ダメですねぇ。

やっと自分が回復したかなと思ったら、今度は家族の世話に追われる羽目になり、ちょっと世間に疎くなってるかもしれません。

世界選手権が間近に迫っております。
今回はJスポーツでは録画を後日放送するということですから、仕方なく、本当に仕方なく、フジテレビで観ることになりそうです。また塩分過多の実況かなぁと、今から気が重い私です。

テレビを観ていても思うことですが、都度都度で抗議の意を伝えるというのも少しは効果があるようですね。
問題は、それが一過性のものとして扱われているであろうこと。

喉元過ぎれば何とやらとも申しますから、繰り返すこと、続けることが重要です。

それにしても、何故一般市民、いわゆる「パンピー」がこんなこと考えなきゃいけないのかと腹が立つこともありますが、見過ごすわけにはいかない事が多すぎ、その甚だしさも増すばかりという現状では、やらねばならぬと思うのが自然な感情ではありませんか。

何事もやりすぎて自爆する傾向のある某国は、弾け飛ぶまで続けるのでしょう。
付き合う必要があるとは思えません。

必要なのは、「否」という言葉のみ。

今まで場を乱すまいと飲み込んできた「否」を、今こそはっきりと突きつけたいと思います。